地中海と大西洋を結ぶ海峡の物語−航海作家が選ぶ歴史航海−
北アフリカとスペインを隔てるジブラルタル海峡は、海の要衝として幾多の歴史が紡がれてきた場所。有史以来数々の戦禍に見舞われましたが、現在ではそんな歴史絵巻や豊かな文化にふれられる人気の観光エリアとなっています。
「地中海の鍵」として知られるジブラルタル。そしてその眼前に広がる海峡にまつわるストーリーへ迫ります。
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文・構成:カナマルトモヨシ(航海作家)
日本各地のみならず世界の五大陸をクルーズで訪問した経験を持つ航海作家。世界の客船を紹介する『クルーズシップ・コレクション』での執筆や雑誌『クルーズ』(海事プレス社)に連載記事やクルーズレポートを寄稿している。
カナマルトモヨシさん 公式ブログ
ヘラクレスの横着が生んだジブラルタル海峡
ギリシャ神話に登場する英雄ヘラクレス。大洋オケアノスの最西端に浮かぶ島へ向かう途中、アトラス山を横断することに。それを面倒に思ったヘラクレスは持ち前の怪力で山を真っ二つに引き裂いた。こうして大西洋と地中海がつながり、分かれた2つの山は、まとめて「ヘラクレスの柱」と呼ばれるようになった。イベリア半島にあるジブラルタルのザ・ロックは、その柱の一本とされている。「ヘラクレスの横着」が生んだジブラルタル海峡は、地中海と大西洋をつなぐ海洋交通の要衝として、のちにさまざまな歴史の舞台となる。そんな海峡を、時空を超えて航海してみたい。
ジブラルタルの由来はイベリア半島を征服した将軍
711年、イスラム帝国(ウマイヤ朝)の将軍ターリク・イブン・ズィヤード(?~720年)はアフリカから海峡を渡りイベリア半島に上陸した。その際、海を越えた船団を自ら焼き払うことで不退転の決意を兵に示し、西ゴート王国を亡ぼすなど瞬く間にイベリア半島を征服した。その上陸地点は彼の名にちなんでアラビア語でジャバル・ターリク(ターリクの山)と呼ばれ、それが転訛しスペイン語の「ジブラルタル」となった。ターリクによる占領の後、この地にはムーア城が建設され、以後700年以上にわたってイスラム勢力による統治が続くこととなる。
大旅行家のネームバリューをフル活用
ジブラルタル海峡のアフリカ側にある港町タンジェ。14世紀初め、ここで生まれたのが大旅行家イブン・バットゥータ(1304~68または69年)である。彼の生涯の約半分を占める30年間、西は北アフリカから東は中国までの旅に費やされ、その記録は1355年に『諸都市の新奇さと旅の驚異に関する観察者たちへの贈り物』としてまとめられた。21歳で初めて旅に出てからは、タンジェにいることはほとんど稀だったバットゥータ。しかし現在、タンジェには彼の名を冠した通りや国際空港があり、その墓と伝えられる白亜の廟も観光名所として街のPRに一役買っている。
グラナダ陥落とコロンブスの新大陸発見
アルハンブラ宮殿を建設したイベリア最後のイスラム国家・グラナダ王国。カスティーリャとアラゴンの連合王国(のちのスペイン)によって1492年1月に滅ぼされた。当時、連合王国に「新大陸発見航海」の売り込みをかけていたのがクリストファー・コロンブス(1451頃~1506年)。カスティーリャのイサベル女王はこのプランに興味を抱いていたが、グラナダ陥落によって戦費が浮いたこともあり、彼の計画を承認した。このとき、コロンブスはスポンサーを求めてグラナダを離れたところだった。女王の伝令は彼を追いかけ、同年の歴史的な航海へとつながる。
スペイン継承戦争の英雄はあの人のご先祖様
18世紀初め、空位となったスペイン王位にフランスのルイ14世が自分の孫を即位させようとしたことで周辺諸国と戦うことになったスペイン継承戦争(1701~14年)。その後、始末のために結ばれたのがユトレヒト条約(1713年)だった。戦争中にジブラルタルを占領した英国はその領有を認められ、現在に至っている。この戦争でフランスを大いに悩ませたのが英国将軍のジョン・チャーチル(1650~1722年)。彼はその軍功で名門貴族のマールバラ公爵家を興した。また彼は、のちの首相ウィンストン・チャーチル、そして英国皇太子のダイアナ妃の先祖でもある。
野生猿の保護は英国陸軍の重要任務
ジブラルタルにそびえる巨岩「ザ・ロック」は、ヨーロッパで唯一の野生猿・バーバリーマカクの生息地となっている。これは1740年に狩猟用に移入された個体群が定着したもの。そしていつしか、「バーバリーマカクがジブラルタルからいなくなったら英国がジブラルタルから撤退する」との伝説が生まれた。1900年には130頭いた猿たちだが、第二次世界大戦中の1940年には物資不足から4頭にまで激減した。ここでウィンストン・チャーチル首相(1874~1965年)は北アフリカから24頭の移入を指示。絶滅をかろうじて回避した。いまも猿たちの世話は英国陸軍砲兵隊の管轄である。
モロッコ独立を生んだ国際管理地域タンジェ
海の要衝ジブラルタル海峡に面したモロッコのタンジェは、国際対立の舞台でもある。1912年、フランスとスペインによってモロッコは分割されたが、タンジェとその周辺は欧州列強による非武装・永世中立の国際管理地域とされた。関税がかからない自由港として貿易・金融で繁栄したが、その半面密輸や麻薬取引、売春などがはびこった。警察や税関も多国籍の混成だったので、指揮系統は乱れて犯罪の取り締まりもままならない。そうした状況から、タンジェは次第にモロッコ独立運動の拠点となっていった。そしてモロッコは1956年に独立を勝ち取る。そして同年タンジェはモロッコに返還され、国際管理地域の幕は閉じた。
ジョンとヨーコがジブラルタルで挙式した理由
1969年3月、ジョン・レノン(1940~80年)はオノ・ヨーコとのロマンチックな結婚式をどこで挙げるか探していた。しかし希望していたパリでは「結婚前にフランス国内に2週間滞在していなければならない」という条件を満たしていないため、NGに。次に目指したのがジブラルタルだった。必要だった条件は2人のパスポートと出生証明書の提示、結婚前後のどちらか1晩をジブラルタルで過ごすことだけ。彼らは「ヘラクレスの柱」のエピソードを気に入り、その前で挙式した。有史以来、長らく抗争が繰り返された海峡、船旅くらいはジョンとヨーコが訴えたラヴとピースにあふれたものでありたい。
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