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「アウシュヴィッツ」とは?歴史・基本情報から周辺の観光スポットまで解説
アウシュヴィッツとは、ナチス政権下によって建てられた強制収容所のことです。1979年には世界文化遺産に登録されており、人類が犯した過ちを記憶にとどめ、教訓とするための「負の世界遺産」として知られています。
本記事では、アウシュヴィッツの歴史や基本情報、周辺の観光情報を詳しく解説しています。ぜひ最後までお読みください。
目次
アウシュヴィッツとは
アウシュヴィッツとは、第二次世界大戦中にナチス政権によって建てられた最大規模の強制収容所です。ポーランドの南西部に位置するビルケナウにあり、第1〜3強制収容所の3つで構成されていました。
「アウシュヴィッツ」は、当時のナチス政権によって占領されていた土地の名前です。英語で「Auschwitz-Birkenau(アウシュヴィッツ・ビルケナウ)」と表記されます。
アウシュヴィッツの歴史
1940年にアウシュヴィッツ第1強制収容所が開所されます。当時、ポーランド軍が使用していた砲兵隊の宿舎を活用していました。主に懲罰的な役割を果たしていた第1強制収容所は、開所後も拡大し続け、ガス室や火葬場も作られています。
強制収容者が増加した1941年には、少し離れた場所にアウシュヴィッツ第2強制収容所を建設。3つの収容所のうち囚人の収容者数が最大で、電流が流れる有刺鉄線のフェンスで9つの区域に分割されていました。アウシュヴィッツ第2強制収容所は、ヨーロッパのユダヤ人を根絶するという計画を立てていたナチス政権の中心的な役割を担っていたとされています。
1942年には、ドイツの複合企業が所有するゴム工場で強制労働をさせる目的で、アウシュヴィッツ第3強制収容所を建設。なお、虚弱で強制労働を続けるのが困難だと判断された囚人は、第2強制収容所に移送されて殺害されています。
1943年に4棟の大規模な火葬場を建設すると、それぞれに脱衣所、ガス室、焼却炉の3部屋を用意。このガス室を使って、ユダヤ人を中心に大量虐殺を行っていました。ガス室は1944年11月まで使用されています。
1945年1月、ソ連軍侵攻を機に、ようやくアウシュヴィッツ強制収容所が解放されます。しかし、強制収容所に残っていた囚人はわずか数千人で、そのほかの約6万人もの囚人は、解放直前に強制収容所からの「死の行進」を強いられました。囚人たちは容赦のない不当な扱いを受け、歩くのが遅い人はすべて射殺されています。
この数年間で少なくとも100万人以上が収容所当局によって殺害されました。
何が行われていたのか
アウシュヴィッツで行われていたのは、主に強制労働、人体実験、毒ガスを使用した虐殺の3つです。収容されていた囚人の大半がユダヤ人で、他には、政治犯やソ連軍捕虜、反社会的分子とみなされていたロマ民族の人々や同性愛者などがいました。
労働力になると判断した場合、強制収容所の近くのドイツの炭坑や工場などで強制労働をさせていました。長時間過酷な労働をさせられた収容者たちは、食事や住まいも粗悪な環境で、体力的にも精神的にも衰弱していき、やがて命を落としていきます。
次に、強制労働以外の人々は選別が行われ、選ばれた人は人体実験の対象者にされていました。ドイツ企業の新薬開発のための実験台はじめ、不妊を目的とした薬の投与、身体へのX線照射などが定期的に行われていたといわれています。この人体実験でも多くの収容者が亡くなりました。
最後に、毒ガスを使用した虐殺です。ナチス政権は、収容者が増えてきた1941年頃に、大量に殺害するための大規模なガス室を設置しました。1942年から本格的に使用され、強制労働や人体実験に適さないユダヤ人の女性や子ども、老人を中心に、大量虐殺を繰り返していました。
アウシュヴィッツ強制収容所の基本情報
アウシュヴィッツ強制収容所は、1979年に世界文化遺産に登録され、現在は第1、2強制収容所の2つが博物館として一般にも公開されています。人間の尊厳そのものが否定された場所として、人類が忘れてはならない遺産であり、「負の世界遺産」とも呼ばれています。
アウシュヴィッツ強制収容所の基本情報は、以下のとおりです。日本からアウシュヴィッツへ行く場合は、ヨーロッパの都市を乗り継いで、ポーランドの都市クラクフをめざしましょう。クラクフからアウシュヴィッツまでは、電車またはバスで約90分で行くことができます。
アウシュヴィッツ強制収容所の基本情報 | |
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登録名称 | アウシュヴィッツ・ビルケナウ ナチス・ドイツの強制絶滅収容所(1940年-1945年) |
登録年 | 1979年 |
登録区分 | 世界文化遺産 |
登録基準 | (6)顕著な普遍的価値を有する出来事(行事)、生きた伝統、思想、信仰、芸術的作品、あるいは文学的作品と直接または実質的関連がある |
国 | ポーランド |
住所 | Ul. Wiezniow Oswiecimia 20, 32-063 Oswiecim |
アクセス | クラクフから電車もしくはバスで約90分 |
アウシュヴィッツ周辺の観光情報
ここでは、アウシュヴィッツと一緒に訪れておきたい周辺の観光スポットを3つ紹介します。いずれもポーランドの歴史を今に伝える貴重な場所で、世界中から観光客が訪れる人気のスポットです。
ヴィエリチカ岩塩坑
アウシュヴィッツと同じく、ポーランドの世界遺産に登録されている「ヴィエリチカ岩塩坑」。かつて、ポーランド王国の首都として栄えていた都市・クラクフから南東へ約15kmの場所に位置しています。
ヴィエリチカ岩塩坑は、古くから岩塩が採掘できることで知られていましたが、14世紀に入り、カジミエシュ3世のもとで、大きく発展します。深さ約327m、長さ約300km以上の大きな岩塩坑内には、労働者たちによって作られた数多くの彫刻や礼拝堂が見られます。
なかでも、「聖キンガ礼拝堂」は圧巻です。地下101mの坑道の跡に築かれた礼拝堂で、レリーフや祭壇、彫像をはじめ、床や壁、天井、シャンデリアまで、すべてが塩で作られています。壮麗な礼拝堂の姿に、訪れた人々は、きっと心が奪われるでしょう。
なお、岩塩坑内はガイドツアーのみで見学できるため、事前に公式サイトなどで予約をしておくことをおすすめします。
旧オスカー・シンドラーの工場
「旧オスカー・シンドラーの工場」はクラクフにあり、現在はクラクフ歴史博物館の一部として公開されています。この工場は、ナチス党員であったオスカー・シンドラーが第二次世界大戦中に営んでいたホーロー工場です。シンドラーは、工員として雇っていたユダヤ人を強制収容所へ連行させないように守っていました。
戦争が激化した頃には、鍋や食器などのホーロー容器から軍需品の生産に切り替えて、従業員が戦争に貢献していることをアピールします。シンドラーが作成したユダヤ人の従業員リストのなかには、実際は働いていない人も含まれており、約1200人もの命を救ったといわれています。このリストアップしたユダヤ人たちとともに、自身の故郷であるチェコに工場を移転させ、戦火を免れることができました。
シンドラーの勇気ある行動は、のちに映画にもなり、多くの人々に称賛されています。アウシュヴィッツを訪れる際は、ぜひ一緒に観光しておくといいでしょう。
ヴァヴェル城
ポーランドの世界遺産・クラクフ歴史地区にある「ヴァヴェル城」。11世紀に王様の居城となったヴァヴェル城は、そのあとの王様によって次々と増改築が繰り返され、敷地内には王宮や大聖堂が建てられました。なかでも、ジグムント1世が建てたジグムント礼拝堂は、金色のドームが映え、最も美しいルネサンス建築のひとつといわれています。
1611年に首都がワルシャワへと移ったあとも、国王の戴冠式と葬儀は1655年のスウェーデンに占領されるまでヴァルヴェル城で行われました。歴代の王様41人が眠るヴァヴェル城は、ポーランドの歴史を伝えるクラクフのシンボルとして、今もなお多くの人々が訪れる人気の観光スポットです。
クルーズによってはアウシュビッツへのオーバーランドツアーを開催する場合もあります。詳しくはお問い合わせください。