クルーズコレクション

異文化交流の光と影-航海作家が選ぶ歴史航海-

リスボン(ポルトガル)
Yoshida Taisuke

航海作家カナマルトモヨシさんが訪れたポルトガルのリスボン。街を歩くと、まるでポルトガルの歴史をたどるかのように、大航海時代の世界が見えてきました。

フィヨルド遊覧に北欧、ヨーロッパなどをめぐる春の世界一周クルーズの資料をお届けします[無料]

文・構成:カナマルトモヨシ(航海作家)
日本各地のみならず世界の五大陸をクルーズで訪問した経験を持つ航海作家。世界の客船を紹介する『クルーズシップ・コレクション』での執筆や雑誌『クルーズ』(海事プレス社)に連載記事やクルーズレポートを寄稿している。
カナマルトモヨシさん 公式ブログ

ポルトガル人の日本「発見」は1541年?

世界遺産に登録されるジェロニモス修道院にほど近い、テージョ河畔に「発見のモニュメント」は立つ。そばの地面には大きな世界地図が描かれている。そこには大航海時代、ポルトガル人が「発見」した地名とその西暦年が示される。ティモール1512、モルッカ1512、マカオ1514…。そして日本は1541年となっている。日本の歴史教科書では、種子島に鉄砲がもたらされた1543年がポルトガルの日本発見の年と記述されている。実は、鉄砲伝来に先立つこと2年の1541年にポルトガル船が豊後(大分県)に漂着しているのである。リスボンに入港した私たちは、さらに新たな発見をいくつもすることになる。

Yoshida Taisuke

ザビエルが東洋へ旅立ったコメルシオ広場

テージョ川を一望するコメルシオ広場。ポルトガル人が初めて日本に到達した1541年、35歳のフランシスコ・ザビエルは、ここから東洋に向かった。サンチャゴ号という700トンしかない船で。ザビエルはモザンビーク、ゴア(インド)、マラッカ(マレーシア)、モルッカ諸島などを経て1549年8月15日に鹿児島に上陸を果たした。彼の来日以後、キリスト教は急速に日本に広まる。そして洗礼を受けた九州のキリシタン大名らの名代として4名の少年を中心とした天正遣欧少年使節がローマへ派遣された。1584年、少年たちはコメルシオ広場にその第一歩を記す。ザビエルのまいた種はここに返り咲いた。

Yoshida Taisuke

戦国の日本人4少年がリスボンで泊った教会

天正遣欧少年使節の4名は派遣当時13~14歳。その名は伊東マンショ(主席正使)・千々石ミゲル(正使)・中浦ジュリアン(副使)・原マルティノ(副使)である。リスボンに着いた彼らには、サン・ロケ教会というイエズス会の教会が宿舎としてあてがわれ、少年らはここで1カ月を過ごした。この教会にはいま、日本に渡ったフランシスコ・ザビエル像もある。ここを出発した少年たちはスペイン国王の歓待を受け、ローマ法王に謁見してローマ市民権を与えられた。数々の栄誉に浴した少年らは1586年、リスボンから帰国の途に就く。しかしそれは彼らの苦難の始まりを告げる船旅だった。

Yoshida Taisuke

唯一の棄教者・千々石ミゲルのその後

1587年、豊臣秀吉による伴天連(バテレン)追放令が出された。4少年は1590年にようやく帰国できたが、その運命は暗転する。伊東、原、中浦が信仰を貫いたため国外追放や処刑など非業の死を遂げるなか、千々石ミゲルは1601年に棄教した。欧州でキリスト教徒による奴隷制度を目の当たりにして不快感を表明するなど、キリスト教への疑問を感じたのが原因と言われる。イエズス会から除名処分を受けた彼は、キリスト教の布教がなお盛んであった大村藩で藩主からも処罰され、キリシタン大名の遺臣から瀕死の重傷を負わされた。裏切り者として命を狙われ続け、逃亡先の長崎で60歳過ぎに亡くなったという。

Yoshida Taisuke

「阿波おどり」を世界に紹介したモラエス

住宅に取り付けられたアズレージョ(青タイル)に、縦書きの日本語がある。ここはモラエス(1854~1929年)の生家だ。ポルトガル海軍の軍人だった彼は、神戸・大阪ポルトガル領事を務め、1900年に日本人の福本ヨネと結婚。ヨネが亡くなると総領事を辞任し、彼女の郷里・徳島に移住した。ヨネの姪の斎藤コハルと暮らしながら『徳島の盆踊り』を出版し、阿波おどりや徳島の風土・文化を世界に紹介。コハルにも先立たれると『おヨネとコハル』などを著した後も母国に帰らず、徳島で生涯を終えた。これらの出版はポルトガルで行われたので、当時、彼の業績を知る人は徳島でもほぼなかった。

Social Good Photography, Inc.

生誕150年で星になったモラエス

モラエスが徳島で孤独のうちに亡くなってから71年後の2000年11月23日。徳島県宍喰(ししくい)町の天文台で星空案内を担当していたアマチュア天文家・前野拓さんは、ひとつの小惑星を発見した。新しく小惑星を発見した場合、その軌道が確定した時点で、発見者に命名の提案権が与えられる。この小惑星は2003年2月に軌道が確定し、63068の確定番号を取得した。名前を考えていた前野さんは、2004年がモラエス生誕150年であることを知り、その名を星に与えることにした。小惑星モラエスは肉眼で見ることはできない。しかし、終の棲家となった徳島で、モラエスはちいさな星になったのである。

Yoshida Taisuke

ポルトガル現代史をたどるテージョ川下り

エンリケ航海王子(1394~1460年)の没後500周年を記念して、1960年に当時の独裁政権は「発見のモニュメント」を建立。王子を先頭に大航海時代に活躍した人物(ヴァスコ・ダ・ガマやマゼラン、ザビエルなど)をかたどった像は、「最後の植民帝国」の足掻きでもあった。1974年4月25日、モザンビークやアンゴラなどアフリカ植民地の独立運動弾圧に嫌気がさした国軍将校らの無血クーデターが成功。独裁政権は崩壊し、その植民地は独立した。リスボンを出港した船は、革命を記念する「4月25日」橋をくぐり、モニュメントを右手に見ながら大西洋へ出る。まるでポルトガルの現代史をたどるように。

Mizumoto Shunya

東ティモールとピースボート大航海時代

ポルトガル独裁政権が倒れた翌1975年、その植民地だった東ティモールは隣国インドネシア軍の侵攻をうけ占領された。1994年、ピースボートは初めてリスボンに寄港。オプショナルツアー「旧宗主国と難民」にて東ティモールから逃れてきた若者の組織を訪問し、ジョゼという男性の話に耳を傾けた。2年後、彼はノーベル平和賞を受賞する。2000年、ピースボートは東ティモールのディリに初寄港。その2年後に独立を果たした東ティモールでジョゼ・ラモス・ホルタは大統領となり、ピースボート・アジアグランドクルーズ(2018年)にも乗船した。リスボンはピースボート大航海時代のはじまりを告げた街でもあった。

今だけ!旅の魅力が詰まった
パンフレットをお届け!

今資料請求をいただいた皆さまには、世界一周クルーズがもっと楽しみになる情報が満載のパンフレットをお送りします。この機会にぜひ資料をご請求ください。

TOP